息を極限まで吐くことが、あらゆる願いが叶う会心につながる

 それでは、先日の続きです。読んで下さい。

≪古代文字から伝承された「あいうえお」の五音≫その2

 
≪五つの力≫

 世の中には、重力、電磁気力、強い力、弱い力の四つの力と「真空のエネルギー」を加え た「五つの力」があります。

 これらの“力”の根源はすべて「氣」から生み出された力です。


 「あ・い・う・え・お」の五母音も、それぞれ力があり、「五つの力」に対応しているように思えてきました。
 
 五の数字が同じだからという理由だからではなく、五体に響かせて五つの母音を発声していると、能望に匹敵するくらいの氣のエネルギーが湧いて来るのです。

 
 しかも、五体の一層目、二層目、三層目、四層目、五層目と、声のエネルギーもパワーアップして、能望を唱えて佳境に入った時に出てくる倍音というのか金属音というのか、高次元からの響きになってくるのです。

 声のパワーや質からも、明らかにレベルアップしてくるのです。
 
 以前に弓の名人のことをメルマガにも取り上げましたが、弓道には「射法八節」という8段階の実践過程があります。

1、足踏み(あしぶみ) 
2、胴造り(どうづくり) 
3、弓構え(ゆがまえ) 
4、打起し(うちおこし)
5、引分け(ひきわけ) 
6、会(かい) 
7、離れ(はなれ) 
8、残身(ざんしん)
になります。

 この6番目の「会(かい)」の説明をします。

 弓道の会は、弓を満月のように引き絞り、もうこれ以上引くことも 押すことも出来ない状態になったところを言う。
 そのとき、心、気、力は 体に充満し、おのずと“無”の状態が訪れる。

 息は吐ききる。 胸の中に1ミリ立方の酸素も残っていないほどに吐ききる。

 このまま死んでしまうのではないか、と思われるほどに 息を吐ききるのである。

 「一射絶命」とか「一射一生」ということを弓道では言うが、それは 「会」のときに息を吐ききることを意味すると言ってよい。

 絶命するくらい吐ききる。 一生が終わるくらい吐ききる。

 すでに胸の中に微塵の酸素も無くなったと思われるほどに吐ききり、 そのままでは死に至るところまでもっていく。

 「会」のなかには「詰合」(つめあい)、「伸合」(のびあい)「穀」(矢ごろ)の三段階があって、 「詰合」(つめあい)は心、気、力を五体に充満させることを言う。

 「伸合」(のびあい)は心、気、力が充満すれば五体は十分に伸びることを言い、そうなれば「穀」(矢ごろ)がはじけるようにして、 五体の中から矢を射る。”ころ合”が生まれてくる。

 即ち、それが「穀」である。

 気力の働きによって技を生かすことが大切である。すなわち、「気は技に優先する」ことを銘記しなければならない。

 「会」は心理的には不動心の連続であり、的に対する執着心や欲望、雑念を去り、正しい信念に基づき克己、冷静、忍耐、決断力の心気の充実につとめるとともに、疑い、不安、弱気、決断力等の心気の充実に努めなければならない。


 この「会」の説明を読んでいると「私達が名人に近づく」と言うことは、私達自身の心に宿る「真の自己」に近づくこと!と同じことなのです。

 「会心」には、思うとおり 望みが叶う 心に叶う 思い通り 気に入る 会心〈の作〉という意味があります。
 
 ですから、「会」の所作の中で、息を限界まで吐き出す呼吸法を実践し、雑念を取り去り、自分の本当の「真の自己」の心に会うこと、つまり、これが会心なのです。

 五体に響かせて、五つの母音を、弓の「会」のように、息を極限まで吐き切りながら発声していると、能望に匹敵するくらいの氣のエネルギーが発生してくるのです。


 息は、自分の自の字の下に心と書きます。ですから、自分の息は自分の心にも関連してくるのです。

 「気を吐く」という言葉もありますので、息は気でもあり、意気でもあり、意識でもあり、心でもあるのです。「心意気」という言葉はこのあたりからできたように思われます。

 息がかった、息の根、息を吹き返す、息を呑む、息もつかせぬ、息を引きとる、息が合う、息が長いなど、息を抜く、と、息に関する言葉が多いのも、息と命と氣のつながりを感じます。


 息を極限まで吐いて、吐く の土の文字の下の横棒=−マイナスを掃き消すと心の奥の「真の自己」が現れるので、叶うという文字になるのでしょうか。

 吐→叶に変わるのです。息を徹底して吐くから叶うに変わるのです。

 つまり、執着心や欲望、雑念、疑い、不安、弱気などの(−)マイナスの邪気を、心の中から息とともに吐き出して、心を浄化し、プラス(十)にすると、夢や希望が叶う、「叶う」の文字に変わるのです。

 息を極限まで吐くことが、あらゆる願いが叶う会心につながるのです。

 
 息を極限まで吐いて、吐いて、吐き切り、もうそれ以上吐けない限界の状態になると気が遠くなり、その「刹那」に一瞬、気を緩めると、息が一気に入ってくるのですが、この一瞬の「刹那」に、運命的なものを感じます。

 生死の境があり、陰と陽の境もあり、この世とあの世の次元の境でもあるような一瞬の刹那(せつな)なのです。


 今の一瞬に意識を集中すると、あらゆる可能性の場に行ける!と言われていますが、釈迦も、白隠も、空海も、そして、弓の名人も、この一瞬の「刹那」を感じていたのかも知れません。

 この「刹那」ですが、10のマイナス18乗ですから、ミクロの命数の六徳の前の命数になります。


 … 瞬息→弾指→刹那→六徳→虚空→清浄→阿頼耶→阿摩羅→涅槃寂靜となります。

 
 瞬息→弾指→刹那、これらの命数は、10のマイナス16乗、17乗、18乗、ですが、いかにも、弓道に関連のある言葉のようにも思われますが違うようです。

 しかし、ミクロの命数の、抜けてた部分が、またまたつながってきました。

 「パワーかフォースか」の16章、17章、18章がシンクロしていると思いますが、次回以降にします。


 さて、「弓道の神様」と呼ばれていた、伝説の弓道家、阿波研造氏は、「的を見ずに」矢を百発百中、的中させることができたのです。

 これは、心の目、つまり「心眼」が開眼していたことになります。

 「あ・い・う・え・お」の五母音の「あー」は頭部の松果体と心眼にも対応しています。 さらに、残りの音声も、会心にも、マトリックス(マンダラ)にも、そして、「大いなる自己」にも、近づくために与えられた、言霊なのかも知れません。


 「あいうえお」を唱えていたら、このようなごろ合わせになりました。

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あいうえお→愛の心を受け・与えよう、大いなる自己から

かきくけこ→感謝の深い気持ち、畏敬の念を深める心

さしすせそ→指し示す、高次元の素晴らしい心の世界

たちつてと→他人を思いやり、つねに手と手をとって助け合う

なにぬねの→何んでも手抜かりなく願い・望みが叶う、五つの力

はひふへほ→八方からの光り、普遍の微笑み豊かな心

まみむめも→真身から与えられる無元の叡智と恵み

やいゆえよ→やる気が湧きだす五つの力、勇気を得よう

らりるれろ→楽々得られる、意識レベルの変容

わいうえを→和の心を得て・与え、宇宙エネルギーとの一体化

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 有り難う御座いました。